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VitalikL authored Dec 22, 2024
2 parents fdadbcb + 8e5917f commit 6d0b1da
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14 changes: 13 additions & 1 deletion src/ja/ss/2024-04/12/01.md
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Expand Up @@ -3,4 +3,16 @@ title: 栄光の時― 十字架と復活
date: 14/12/2024
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> <p>暗唱聖句</p>
> そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ 18:37、新共同訳)
> <p></p>
> そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。(ヨハネ 18:37、口語訳)
### 今週の聖句
ヨハネ 18:33-19:5、ヨハネ 19:17-22、ヨハネ 19:25-27、ルカ 2:34、35、ヨハネ 20:1-18、Iコリント 15:12-20

ヨハネによる福音書の山場は、イエスの十字架刑と復活です。最初の 10 章は、およそ 3 年半を扱っていますが、それとは対照的に 11 章から 20 章までは、およそ 1、2 週間を扱っています。

四福音書は、イエスの死をさまざまな方法で描いています。それぞれの記事に矛盾はありませんが、各記者は自分の福音書の主題と特に共鳴する重要な点を強調しているのです。マタイは聖書に書かれていることの成就を強調し、マルコはイエスのバプテスマと十字架の類似点を強調し、ルカはいやしと救いとしての十字架(十字架上の犯罪人の話)に焦点を合わせています。

しかしヨハネは、十字架をイエスの即位として、特にこの福音書全体を通して何度も言及されている「時」に結びつけながら描いています(ヨハ 7:30、8: 20、12:27)。十字架刑は、ローマ人が用いた最も不名誉で恥ずべき処刑方法だったので、即位というのは皮肉な見方です。この対比が、ヨハネの伝える深い皮肉を指し示しています。つまり、イエスは恥辱の中で死なれましたが、それは同時に、救い主としての輝かしい即位でもあったのです。
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title: 日課
title: 真理とは何か
date: 15/12/2024
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ヨハネ 18:28 - 32 において、イエスの裁判の詳細は描かれていません。焦点は、ポンテオ・ピラトの前に引き出されたイエスにあります。

`ヨハネ 18:33-38 を読んでください。ピラトとイエスは、何について話しましたか。`

総督はイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」(ヨハ 18:33)と尋ねます。それは王という称号への最初の言及ですが、これで最後ではありません。イエスはピラトに、自分自身で尋ねているのか、それともほかの人がそう言ったのか、とお尋ねになりました。その質問は、総督とイエスの立場を逆転させ、総督に誰と話しているかわかっているのか、と問うものでした。読者は、イエスが王であることをすでに知っています。総督も知ることになるのでしょうか。

ピラトは自分自身の質問で、こう答えます。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」(ヨハ 18:35)。それは、イエスがピラト自身の答えを求められたことへの苛立ちから生じた言い逃れでした。その言い逃れは、総督が真理から遠ざかった第一歩であり、偏見が彼の認識を妨げたのです。

イエスは、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハ 18:36)とお答えになりました。するとピラトは、イエスがご自分を王であると主張しておられると鋭く推測します(ヨハ 18:37)。このことは、イエスが真理を証しするために生まれ、「真理に属する人は皆、わたし(イエス)の声を聞く」(同 18:37)という彼の重要な説明につながります。

そしてピラトは、「真理とは何か」(ヨハ 18:38)と尋ねます。しかし、彼はイエスの答えを待ちません。代わりに、群衆からイエスを救おうとして、彼は〔官邸の〕外に出ます。

真理は、ヨハネによる福音書の主題の一つです。永遠の「言ことば(ロゴス)」(ヨハ 1:1 - 5)であるイエスは、「光」であり、「真理」です。これらは皆、闇や偽りとは対照的です。イエスは、恵みと真理に満ちておられ(同 1:14)、恵みと真理は、彼を通してあらわれました(同 1:17)。バプテスマのヨハネは真理を証しし(同 5:33)、イエスは、御父が「真実」であると断言なさいました(同 7: 28)。イエスご自身が父なる神から真理をお聞きになりました(同 8:40)。イエスは、「道であり、真理であり、命であ(り)」(同 14:6)、神の言葉は「真理」 です(同 17:17)。ピラトは自ら尋ねたにもかかわらず、彼の偏見、先に下した決断、圧力のために、真理を知る機会を逃してしまいました。
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title: 日課
title: 見よ、この男だ!
date: 16/12/2024
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`ヨハネ 18:38-19:5 を読んでください。ピラトはイエスの釈放を求めるため、人々をどのように説得しようとしましたか。`

ピラトは、真理に関してイエスの答えを待ちませんでした。その代わりに、人々を説得するために再び外に出ました。イエスをただ釈放するのではなく、人々と対話したことで、ピラトは自らを不利な立場に置きました。宗教指導者たちは、群衆を通して総督を操ることができると気づいていたのです。

ピラトは、過越祭に囚人を釈放する慣例に言及し、「ユダヤ人の王」を釈放することを望むかどうか、群衆に尋ねました。驚くべきことに、そして皮肉なことに、群衆は無実のイエスではなく、盗賊のバラバの釈放を求めました。

そこから、イエスに対する嘲笑と辱めが始まります。ローマの兵士たちは、いばらの冠を編み、紫の服をイエスにまとわせ、次々にやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」とふざけて彼を賞賛しました。兵士たちによるこの種の挨拶は、皇帝への挨拶に似ていますが、ここではあざけりとして行われました。

ピラトは、民衆の同情心を利用して、イエスを釈放する方法を模索しているようです。彼は、いばらの冠と紫の服を身に着けたイエスを連れ出します。ヨハネの解説はありませんが、この場面では、イエスが見せかけの王の服を身にまとい、総督が民衆に、「見よ、この男だ」(ヨハ 19:5)と呼びかけています。それは、バプテスマのヨハネがヨハネ 1:29 で語った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉を思い出させます。異教徒の総督が、イスラエルの前に、このような王の装束をまとったメシアを紹介するというのは皮肉なことです。

しかし、ヨハネ 19:6 - 16 が示すように、暴徒たちは、ご自分が神の子であるというイエスの主張に基づいて、彼の十字架刑を要求します。このことにピラトは恐れ、ますますイエスを釈放しようと努めます。しかし指導者たちは、イエスを釈放することは皇帝に背くことだと主張し、イエスの運命を決定づけました。彼らは、皇帝に対するピラトの忠誠心が、同じ役割〔王〕を主張する人物を釈放できないことを知っていたのです。指導者たちは、自分たちには皇帝のほかに王はいないと言いました。このように、イエスに対する彼らの深い憎しみは、自分たちの国を愛する以上に大きかったので、イエスを排除するために、彼らは国家の自治権を犠牲にすることもいといませんでした。

`異教徒の支配者がイエスの釈放を望み、イエスを認めるべき霊的指導者たちは十字架につけることを望みました。このことからどんな教訓が得られますか。`
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title: 日課
title: 「成し遂げられた」
date: 17/12/2024
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ヨハネ 19:17 - 22 が示すように、ピラトは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハ 19:19)という罪状書きを書きました。宗教指導者たちはそれを書き換えることを求めましたが、ピラトは認めませんでした。その罪状書きは、イエスに関する真実の無言の証人であり、イエスが王として十字架上で即位されることを示すしるしの一つでした。そこには、まさに彼らの王、ユダヤ人の王であられるイエスが、普通の犯罪人のように十字架にかけられていたのです。

「ピラトよりも、あるいはユダヤ人よりも高い権力が、その罪状書きをイエスの頭上にかけるように命じたのだった。神の摂理によって、それは思いを目覚めさせ、聖書を調べさせるのであった」(『希望への光』1071ページ、『各時代の希望』 第 78 章 )。

`ヨハネ 19:25-27 を読んでください。イエスの母親に関して、十字架上でどんな感動的な場面が見られましたか。`

その日、十字架の下に立っていた人々の中には、愛する弟子ヨハネと共に、イエスの母マリアたちがいました。何十年も前のこと、ヨセフとマリアがイエスをささげるために神殿に連れて行ったとき、シメオンはまさにこの体験を預言していました(ルカ 2:34、35 を参照)。今、イエスは、死に臨んで母に語りかけられます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハ 19:26)。そして、ヨハネにも言われました。「見なさい。あなたの母です」(同 19:27)。

`ヨハネ 19:28-30 を読んでください。「成し遂げられた」というイエスの死に際の言葉には、どんな意味があるのでしょうか。`

28 節(「すべてのことが今や成し遂げられた」)のギリシア語動詞「テレオー」 (「終わる」「完成する」「遂行する」の意)は、30 節(「成し遂げられた」)で使われている動詞と同じです。さらに、関連語の「テレイオオー」(「終わらせる」「完全にする」の意)も、聖書の成就に言及して 28 節に登場しています(「聖書の言葉が実現した」)。どんなに恐ろしい光景であったとしても、すべてが成就し、完成しつつあったのです。イエスが「成し遂げられた」と言われたとき、彼は父な
る神から与えられた働きを完成し、成就させつつありました。
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title: 日課
title: 空からの墓
date: 18/12/2024
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ヨハネ 20:1-7 を読んでください。これらの聖句で描かれているこ とに関して、私たちにとって重要な点は何ですか。
イエスは金曜日の午後遅くに亡くなり、日曜日の朝早くに復活されました。イエスが葬られたとき、安息日が迫っていたので(ヨハ 19:42)、埋葬は急いで行われ、完了しませんでした。どれほどイエスを愛していても、弟子たちは安息日を守り、墓に行きませんでした(マコ 16:1、ルカ 23:56 と比較)。安息日が終わった日曜日の朝、何人かの女が香料を買って墓へ持って行きましたが、驚いたことに、墓石は転がされ、墓の中は空になっていました。

マグダラのマリアは、朝早く墓に来た女たちの1人でした。彼女は走って行って、自分が見たことをペトロとヨハネに伝えます。2 人は墓へと走りました。ヨハネはペトロを追い抜いて先に着きました。身をかがめて墓の中を見ると、イエスが包まれていた亜麻布が置いてありました。しかし、ヨハネは墓の中に入りませんでした。

一方、ペトロは墓の中に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いも見ましたが、それはほかの亜麻布とは一緒でなく、離れた所に折り畳まれてありました。

`ヨハネ 20:8-10 を読んでください。頭を包んでいた覆いが折り畳まれていたことには、どんな意味があったのでしょうか。`

ペトロが墓に入ったあと、ヨハネも中に入りました。ヨハネ 20:8 によると、彼も「入って来て、見て、信じた」と書かれています。なぜヨハネは、埋葬用の布がそこにあり、頭を包んでいた布が折り畳まれて離れた所にあるのを見て、イエスが死者の中から復活されたと信じたのでしょうか。

この疑問に答えるには、そもそもなぜ墓が空だったのかを考える必要があります。最も典型的な答えは、墓荒らしでしょう。しかし、この説明は三つの理由から受け入れられません。第一に、マタイは、墓が見張られていたと述べています(マタ 27:62 - 66)。第二に、墓荒らしは通常、貴重品を盗むのであって、腐った死体は盗みません。第三に、墓荒らしは急ぐため、埋葬用の布を畳むことはありません。ですから、頭を包んでいた布が折り畳まれているのを見たヨハネが、イエスは死者の中から復活されたと信じたのも当然でしょう。
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title: 日課
title: イエスとマリア
date: 19/12/2024
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`ヨハネ 20:11-13 を読んでください。ここでマグダラのマリアが空からの墓の意味をまだ理解していない理由を示すどんなことが起こりましたか。`

マリアに関するこの箇所より前の記述は、彼女がペトロとヨハネに空の墓のことを告げたことです(ヨハ 20:2)。彼らは墓に駆けつけ、マリアはしばらくしてから墓に戻りました。ペトロとヨハネは墓の中を調べたあと、その場を離れましたが、マリアは戻って来ると、泣きながら墓の外にとどまっていました。間違いなく、彼女はこの数日間、たくさん泣いたに違いありません。それなのに、またこんなことが......。彼女は身をかがめて中を見ました。

驚いたことに、白い服を着た 2 人の天使が墓の中にいて、イエスの遺体が横たわっていた場所に座っていました。彼らは彼女に尋ねました、「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハ 20:13)。彼女の悲痛な答えは、主が取り去られ、どこに置かれているのかわからない、というものでした。

`ヨハネ 20:14-18 を読んでください。何がマリアにとってすべてを変えたのですか。`

マリアが振り返ると、涙でかすんだ目を通して、背後に立っている誰かの姿が見えました。天使たちと同じような言葉で、見知らぬ人はこう尋ねます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハ 20:15)。彼女は庭師と話しているのだと思い、イエスの遺体を見つける手助けを求めました。

その見知らぬ人は、一言、「マリア」と言います。それは世界を変えた一言の啓示でした。突然、驚いたマリアは、復活されたイエスが自分に話しかけておられることに気づき、その人がイエスであることを認めます。イエスは、御父のもとに上らなければならないので、ご自分を引き留めてはならないと、彼女にお求めになりました。しかしマリアには、イエスが「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ......上る」(ヨハ 20:17)ことを弟子たちのところへ行って告げるという任務があります。マリアはその使命を果たしました。彼女は弟子たちに、自分が主を見たことを告げ、また、主が彼女にお伝えになったことを残らず話したのです(同 20:18)。
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