ここまで、フィードバック対象の見つけ方、フィードバックする内容の見つけ方、報告の組み立て方を解説してきました。しかし、それらの技術的な内容以前のハードルとして、言語の壁という物もあります。
実際にOSS Gateワークショップでも、フィードバック内容を整理することはできても、それを英語で表現することに手こずっておられる方がかなり多い印象があります。OSSでは英語が共通の言語として使われている場合が非常に多く、このこと自体が日本語を母語とする人のOSSプロジェクトへの参加障壁になっているのは否めません。
昨今は、機械翻訳の性能の向上によって、機械翻訳任せでもそれなりにコミュニケーションを取れるようになってきています1。DeepL Proのように、翻訳結果の自由な利用を明示的に許容する規約になっているサービスを使うのであれば、この章で後述する著作権の問題も生じません。少なくとも、問題の報告や質問をする場面では、英語の読み書きは必須技能でなくなりつつあると言ってもよさそう、というのが筆者の所感です。
ただ、英語の読み書きが全くできないと、機械翻訳の結果がとんでもない誤訳になっていても、自分でそのことに気付けない恐れがあります。自分の力で組み立てた言葉で、自信を持ってコミュニケーションを取れるに越したことはないでしょう。
また、ドキュメントや表示メッセージの翻訳に協力する場面では、「訳文の著作権は確かに自分が持っている」と言える必要があります。色々な意味で、OSSに関わる際に、自分の力で英語を読み書きできたほうがよいのは間違いありません。
ITエンジニア向けに「こういう英語表現を覚えよう」という情報を紹介する記事は時々見かけます。ですが、ビギナー参加者の方の様子を実際に見ている限りは、必要なのは「実際の現場でよく使われる単語や熟語の情報」ではなく、「実際の現場で英文を書くときの考え方の解説」のほうであるように筆者には感じられました。
そこでこの章では、OSSのプロジェクトに関わる場面で英文を書くときの、「考え方」に焦点を当てて解説してみます。対象読者は、英語に苦手意識のある方、中学高校の英語の授業で英作文はしたことがあるけれども自分でゼロから何かを説明する英文を書いたことはない方、といったレベル感を想定しています。
冒頭からちゃぶ台を返してしまいますが、OSSへフィードバックする際には、英語を自由自在に扱えないといけない、ということはありません。
前章でも述べた通り、言葉での説明が難しいところは図や画像や動画を使う方法もあります。実際に動作するプログラムやデータファイル、あるいは仮想環境そのものを用意する手もあります。とにかく、そのときの自分に使えるあらゆる手段を柔軟に使い分けて、伝えたいことをどんな形ででもいいから伝えるのが一番大切なことです。
これは何度でも強調しておきたいのですが、英語で書くことも、文章を書くことも、手段であって目的ではありません。OSSプロジェクトのイシュートラッカーは「美しい英文を披露して競う発表の場」や「英語スピーチ大会の場」ではないのです。
筆者自身もOSSを公開してフィードバックを受ける立場ですが、その実感から率直なことを言うと、筆者が英語が不得意だからということを割り引いても、流暢な英語で、複雑なことを要点を踏まえないまま長々と説明されても、開発者としては全然嬉しくありません。それだったら、再現手順の特定をもっと頑張るとか、せめて図の1つでも付けるかしてくれたほうがありがたい、と思うことが多々あります。
そう。意外かもしれませんが、OSSに関わっている人の全員が全員英語が得意とは限りません。OSSの開発者には中国人もいれば韓国人もいるし、ロシア人やインド人もいます。「英語が母語である」人はむしろ少数派かもしれず、「英語で説明されること」自体が、情報の伝達を妨げる障害にもなりえるのです。
実際の所、前章で述べた
- 再現手順(steps to reproduce)
- 実際に得られた結果(actual result)
- 期待される結果(expected result)
という基本の3要素を箇条書きにするだけで、報告としての体裁はもう充分に整っています。
具体的な再現手順を書くときも、GUIの操作は「Click XXX(XXXをクリックする)」「Input XXX(XXXと入力する)」といった端的な表現で充分ですし、コマンドライン操作なら、実行したコマンドや出力結果をそのままコピー&ペーストするだけいいです。あとは最初か最後に一言「Is this intentional?(この結果は意図的なものですか?)」とでも添えれば十分でしょう。誤解を恐れずに言えば、OSSへの報告は、英語の文章以外の形での具体的な説明が多いほどよく、英語の文章での抽象的な説明は少ないほどよい、というのが筆者の持論です。
「英語での報告の仕方」に困ったら、冷静になって思い出してください。皆さんがしたいことは、「英語の文章を書くこと」ではなく、「不具合を伝えること」や「要望を伝えること」のほうであったはずです。画面から一度目を離して深呼吸すれば、英語以外の何か別の手段を思いつけるかもしれません。
とはいえ、英語の文章での説明が必要な場面も現実にはたくさんあります。なので、ここから先は、どうしても英語を使うことを避けられないとなったときのために、ゼロからすらすら英語の文章を書けるようになるためのコツをお伝えしていこうと思います。
英作文に不慣れな人は、まず「日本語の文章」を考えて、それを「対応する内容の英語の文章」に変換するものだ、と考えがちなのではないでしょうか。
いきなり断言してしまうのですが、それは無理なので、潔く諦めてしまいましょう。
外出先から帰宅した人が在宅していた人に言う「ただいま」や、それに応えての「おかえりなさい」は、英語に翻訳しようがないとよく言われます。そもそも欧米には「帰宅した時に挨拶を交わす」文化が無いため、そういう言葉どころか概念が無いのだそうです。この例を1つとってみても、「日本語で書いた文章をきっちり英語に変換しきる」のは根本的には不可能だということが分かるのではないでしょうか。
ではどうするのかといえば、「伝えたい内容、対象」そのもののほうに立ち返って、それを表現する英語の文章を考える、ということになります。
たとえば、ここに1本のペンがあるとします。その状態を英語で表すには、どんな文章が考えられるでしょうか?
「これはペンです」という日本語の文章を先に与えられていれば、「This is~」という文しか思いつかないかもしれません。しかし事実のほうに焦点を当てると、色々な角度から表現できることが分かるのではないでしょうか。
「すでに書いてしまった日本語の文章」に囚われないで、「目の前にある物」や「目の前で起こっている事実」のほうを意識することを、常に心がけるようにしてみてください。まずはそれが最初のステップです。
このことを考える上で参考になる物として、*「やさしい日本語」*があります。
やさしい日本語とは、
- 海外からの旅行者がよく訪れる観光施設や、移民者が手続きに来る市区町村の役所などにおいて、日本語が不得手な人が読むことを想定して
- 複雑な表現や難しい単語をなるべく使わずに、平易な単語や単純な文の書き方を心がけて
書かれた、日本語の文章のことを言います。日本語ネイティブスピーカーではない人だけでなく、子供や高齢者、障害者など幅広い層にとってもメリットがあるため、近年注目されてきているそうです。
「やさしい日本語」を書くためには、同じ物事をより平易な表現で言い換える必要があります。たとえば、
訪日観光客で洛中・洛外は連日溢れかえっており、史跡や寺社仏閣が観光資源として有効に機能していて、誇らしい。
という文章は、
- 多少ニュアンスは変わったとしても、各単語を平易な表現に言い換える。
- 訪日観光客→他の国から来た人達
- 洛中・洛外→京都の町
- 連日溢れかえり→毎日たくさんいる
- 史跡や寺社仏閣→古い建物、お寺、神社など
- 観光資源として機能→見どころになる
- 接続された文を短い文に切り分ける。
- リズム感や格好良さを優先していたトリッキーな語順を整理する。
- 省略された主語(行為の主体)を補う。
といった加工をすることで、
京都の町には毎日、たくさんの人達が他の国から来る。
古い建物、お寺、神社などが見どころになっている。
私はとてもうれしい。
のように言い換えられるでしょう。
英語が不得意な人は、英語の文法にも単語力にも自信が無い場合が多いと思います。しかしその一方で、日本語はそれなりに使えるという自信が(無意識にでも)あるはずです。そのため、自分の持てる限りの日本語力を駆使して考えた日本語の文章には、難しい単語や言い回しが無意識のうちに入ってしまいがちです。
日本語力と英語力の間にギャップがあるために、日本語で選んだ単語や表現に対応する英語の言い方が分からなくて、手が止まってしまう……これこそが「英語になると途端になにも書けなくなる」ことの正体です。
なので、日本語の文章を英語に訳せる自信が無い場合、その前段階のワンクッションとして、まずは自分が書いた文章を「やさしい日本語」に書き直すようにしてみてください。そうすればきっと、次のステップにもスムーズに進めるようになるでしょう。
英語の話に戻ります。
中学高校までの英語の授業ではさまざまな文法(文型)や単語を教わりますが2、こと「OSSへのフィードバック」という場面で言うと、実際に使う知識はその中のごく一部です。特に文章の形は、基本的にS(subject:主語)-V(verb:動詞)-O(object:目的語)の形式で書くと考えていいです。これは「私は○○をした」「あなたは××である」のような単純な文章、いわゆる平叙文という形式です。
日本人が英文を書くと受動態(受け身の形、主語が何々されるという文)が多くなりがちだ、とよく言われます。それは、こなれた日本語の表現では主語が省略されがちで、そういう文章をそのまま直訳すると、必然として受動態にせざるを得ないからです。
ですが、「誰が」何をしたのか、「誰が」どうなったのか、ということを省略しないようにすれば、文章は自然とSVOの文型になります。
「誰が」を書いたら主語が「I(私は)」「You(あなたは)」ばかりになってしまう、と思いますか? それは、「主語は人間だ」という無意識の思い込みがあるからです。英語では、物でも現象でも概念でも普通に主語になります。主語をどう書くかに迷ったら、一旦あらゆる物事を擬人化してみてください。
たとえば、
Firefoxの法人向けポリシー設定で、検索候補の表示を無効化する`SearchSuggestEnabled`を`false`に設定しても、単独のWeb検索バーでは検索候補が表示され続けてしまう。
という不具合を報告したいとします3。これはどう言い換えられるでしょうか。
日本語での省略された主語は「私が(~を設定した)」です。しかし、ここには「私」の他にも、「Firefox」や「SearchSuggestEnabled
という設定項目」、「その設定の値がfalse
である状態」、「単独のWeb検索バーというUI部品」「検索候補」といった登場人物達がいます。
これらを主語にしてみると、たとえば以下のような表現ができます。
- 「設定の値が
false
である状態」を擬人化して主語にする:
`SearchSuggestEnabled`=`false` does not hide search suggestions on the search bar.
≪`SearchSuggestEnabled`=`false`という状態が、検索バーの検索候補を隠してくれない≫
- 「検索候補」を擬人化して主語にする:
Search suggestions on the search bar are visible with `SearchSuggestEnabled`=`false`.
≪`SearchSuggestEnabled`=`false`という設定の時に、検索バーで検索候補が見える≫
どうでしょう。このくらいの英文なら、自分にも書けるような気がしてきませんか? これに
There is an enterprise policy `SearchSuggestEnabled`.
≪~という法人向けポリシー設定があります。≫
The address bar shows search suggestions. The web search bar also.
≪アドレスバーは検索候補を表示します。Web検索バーも同様。≫
などの文を添えれば、上述の例で報告したかった内容は言い表せたと言っていいでしょう。
いかがでしょうか。長く複雑な構造の文章で表されていた内容であっても、一文一文を細かくぶつ切りにして、それぞれに主語を与えてSVOの形で書き直してみれば、こんな要領の平易な英語の文章で表現できるのです。
ソフトウェア開発の場面であれば、「モジュール名」「メソッド名」「変数名」「ソースコード中の行番号で示した行(The line 123 is...)」などなど、他にも色々な物が「登場人物」になり得ます。皆さんもぜひ、目につく物を片っ端から主語にしてみてください。
文章をぶつ切りにしてSVOの文型に揃えることには、同時に、使う動詞や形容詞を辞書から見つけやすくなる効果もあります。というのも、和英辞書で動詞や形容詞を調べると例文は大抵「誰々が何々をする」のようなSVOの文の形になっているからです。辞書で見つけた例文をそのまま使える、これは大きな利点です。
また、先の例で使った動詞が
- show(表示する)
- hide(隠す)
- are visible(~が見える状態である)
という、教科書に出てきたりプログラムやCSSの中で見かけたりするような、特に難しくない・ありふれた単語だったことに気が付いたでしょうか?
「やさしい日本語」において、難しい単語を使わず平易な単語を使うように言い換える、多少の細かいニュアンスをそぎ落としてでも端的に意味が通じる言葉を選ぶということを説明しましたが、英語でも同じことが言えます。言いたいことに厳密に当てはまる難しい英単語は、おおむね意味合いが通じる平易な単語で代用できるのです。平易な動詞や形容詞でも、主語を変えると意外と広い意味で使える、というのもSVOの文型を使うことの利点です。
筆者はこういう場面で使われやすい英単語をもう少し知っているので、実際にはこのような場面では状況に応じて
- appear(出現する、表れる)
- append / add(追加する)
- disappear(消える)
- deactivate / disable(無効化する)
のような単語を使うと思います。ですが、こういった単語を知らなくても、先の平易な単語でも言いたいことは通じます。より厳密な単語を覚えていくのは追々で問題ありません。他の人が書いている文章で「この単語、なんていう意味だろう?」と思ったらその場で調べて、自分が似たような場面に遭遇したら次から使ってみる、そんな感じで少しずつ語彙は増えていくので安心してください。
とはいえ、ソフトウェア開発の場面で特有の頻出単語は確かにあります。たとえば以下のようなまとめの記事もありますので、暗記が得意なら、頻出単語をあらかじめ頭に入れておいてもいいでしょう。
伝えたい複雑な内容を、ぶつ切りのSVOの小さな文に分けていくと、今度は文同士の繋がりをどうするかで悩むことになりがちです。
確かに、ぶつ切りの文章は少々不格好なのは否めません。せめて順接4か逆接5かくらいは示しておきたい……いやそれだけじゃなくて因果関係も示したい……と難しく考え始めて、またしても「日本語での表現の仕方は分かるが、英語での表現の仕方が分からないので、手が止まる」というドツボにはまり込んでしまうのは、よくあることです。
筆者は、そこで悩むくらいなら箇条書きで書いてしまうことをお勧めします。
たとえば、対等な物を並べるなら、前述の英単語の例を列挙したような序列無しの箇条書きにすればいいですし、順番や優先順位に意味がある場面では、項目の頭に数字を付けた序列付きの箇条書きにすればいいです。この考えに則ると、「再現手順」は以下の要領で書けるでしょう。
1. ◯◯をする。
2. ××をする。
3. △△が◇◇になる。
これなら、受け取り手が順番を読み違えることは無いですし、「Repeat steps from 1 to 4.(1から4を繰り返す)」のように手順そのものを指し示す抽象的な書き方も容易にできます。
また、箇条書きを階層化すると、
1. ◯◯をする。
* ◎◎が出る。
2. ××をする。
* ◎◎が消える。
3. △△が◇◇になるかどうか。
* ◇◇になっていたら、4に進む。
* ◇◇になっていなかったら、1に戻る。
というように、各項目に付随する補助的な情報だったり、条件ごとに変わる操作だったりと、各項目の因果関係や依存関係を含んだ複雑な情報もスッキリ表せます。
実は、ここに書いたようなことは、海外旅行などでも使える一般的な考え方です。実際に、筆者が見かけた例では「悪魔英語 喋れる人だけが知っている禁断の法則」という作品も同様の解説の仕方になっていました。「学校である程度の英語教育を受けたにも関わらず、自分からは英語を話せない・書けない」という人にとっての処方箋は、似たような感じの所に落ち着くのかもしれません。
ここで述べたことを実践して書かれる英語は、はっきり言えば「たどたどしくて、つたなくて、不格好な、ヘタクソな英語」です。でも、それでいいんです。ネイティブスピーカーとリアルタイムで舌戦を繰り広げるとか、格式高い場でスピーチをするとか、そういう場面でもない限りは「だいたい通じる下手な英語」で間に合います。
確かに、海外に移住して「生活」するとか、こちら側の隙を目ざとく突いて自己の利益を最大化しようとする相手との交渉、といった場面になってくると、英語が下手だとナメられたり足下を見られたりするようです。
ですがOSS開発の場では、筆者が知る限りは別にそんなことはありません。むしろ、インド人や中国人など英語ネイティブでない人が、めちゃくちゃな英語で普通にコミュニケーションしている場面のほうをよく目にします。世界中で見れば「英語のネイティブスピーカー」より「外国語として英語を使う非ネイティブスピーカー」のほうが多いわけで、そういう意味では我々のほうが多数派なのです。特別に自分が劣っているというわけではないので、安心してください6。
このあたりのことについて、英語話者の視点から書かれた「酷い英語をもっとお願いします」という記事があります。英語話者の人にとっても、英語が壁となって有用な意見やフィードバックを得られないことは損失なので、英語の上手い下手なんて気にしないでガンガン伝えて欲しい、という感覚があるようです7。ですから皆さんも、どうか物怖じしないで英語での報告に挑戦してみてください。
英語の文章を書いてみたけれど、ちゃんと書けているのか、本当に通じるのか、自信が無い……そんなときは、書いてみた英文を「英語→日本語」の機械翻訳にかけてみることをお勧めします。
機械翻訳は、日本語と英語のように文法が大きく異なる言語同士では、「ある言語に熟達した人が書いた、ハイコンテクストでこなれた文章を、そのニュアンスを捉えた上で、別の言語のこなれた訳文に翻訳する」のは不得意です8。そもそも、その分野に強い同時通訳の専門家でも、そういったことを事前打ち合わせなしの完全アドリブで行うのは困難です。
実際に筆者は、中国語やロシア語を母語としていると思われる方々から、機械翻訳の結果の日本語で障害報告を受け取ったことが何度かありますが、そういった文章は文意を読み取るのが難しく、報告の内容を理解するのに、筆者はずいぶん手間取ってしまいました。日本語への翻訳にせよ、日本語からの翻訳にせよ、こなれた文章の機械翻訳は鬼門だ、というのが筆者の実感です。
しかし、「平易な英文を、平易な日本語の文章に翻訳する」場合、機械翻訳は充分に役立ちます。自分で書いた英文を機械翻訳にかけて、結果の日本語の文章を読んでみて、言いたかったことがちゃんと言い表されていると思える結果になっているなら、その英文は人前に出して全然大丈夫です。
筆者も実際に、書いてみた英文の正しさに自信が無いときは、Google翻訳で英和翻訳してみています。その結果を見ながら、単語の意味や前置詞の使い方を間違えていることに気が付いて手直しする場面も多々あります。
平易な文章の和英翻訳で、誤訳の心配がないとしても、訳文を何にどう使うかには気をつける必要があります。機械翻訳の結果の著作権は、一般的に、機械翻訳サービスやツールの提供者が持つと考えられます。そのため場合によっては、機械翻訳の結果の文章を自由には使えないことがあるからです。
筆者が確認した限りでは、2021年8月13日現在、有名どころの翻訳サービスの利用規約は以下のような状況となっていました。
- エキサイト翻訳:訳文の公開や商用利用、第三者による改変を利用規約で禁じており、公開の場での報告や、ドキュメントや言語リソースの翻訳には使用できません。
- Google翻訳、みらい翻訳:利用規約には訳文の用途や著作権についての言及がなく、訳文を自由に使ってよいかどうかは不安が残ります。
- DeepL翻訳:無償版のサービスの利用規約には、訳文の用途や著作権についての言及がなく、訳文を自由に使ってよいかどうかは不安が残ります。ただし、有償サービスのDeepL Proについては、訳文の無制限の利用権が使用者に恒久的に与えられる旨明記されており、こちらであれば、OSSに関わる場面での使用には支障はない可能性が高いです。
例えば、OSSライセンスは成果物の商用利用を禁止しませんが、ドキュメントやコードの中に埋め込むコメントなどの文章に機械翻訳の結果を使うと、それが翻訳結果の商用利用を許容していない9サービスで翻訳した結果だった場合、*ライセンスとサービスの利用規約が競合してしまう(サービスの利用規約に違反してしまう)*恐れがあります。
「報告」ではなく、ソフトウェアの表示文字列やドキュメントなどの翻訳の話題となりますが、翻訳結果の著作権が実際に問題になった例としては、Ubuntuの翻訳コミュニティで起こった事件が挙げられます。
Ubuntuの翻訳コミュニティであるlaunchpad.netでは、翻訳の成果は3条項BSDライセンスで共有することになっています。他方で、当時利用できた著名な翻訳サービスには、3条項BSDライセンスに沿った形での翻訳結果の自由な二次利用を、明確には許可していないものが多い状況でした。そのため、launchpad.netにそれらのサービスでの翻訳結果を提供すると、翻訳サービスの利用規約違反にあたる恐れがありました。
しかしながら、launchpad.netに日本語の翻訳リソースを提供していた人の中に、翻訳サービスでの翻訳結果を黙って使っていた人がいたことが、2017年になって突如発覚しました。その人自身、どの翻訳にどのサービスを利用したかを把握していなかったことから、この人が過去に提供した翻訳結果はすべて、翻訳サービスの利用規約に違反している可能性があると言わざるを得ない状態でした。これはひいては、翻訳コミュニティ自体が翻訳サービスの利用規約違反に問われる恐れがある、ということを意味します。
その人自身はすでに翻訳コミュニティを去ってしまっていたことから、後始末はすべて、コミュニティで活動を継続していた人達が行う羽目になってしまいました。最終的には、その人が過去に提供した翻訳リソースをすべて調べ上げた上で、それらの変更をすべて差し戻して、改めて翻訳をやり直すこととなりました。
この差し戻し自体に要した工数の負担もさることながら、参加者の信頼に基づいて運営されるコミュニティにおいて、信頼を破壊する行為が行われたということで、この件は関係者の間に大きな禍根を残しました。
基本的に、OSSへのコントリビュートは、「自分にできることを、自分にできる範囲で行い、結果をコミュニティで共有する」ものです。翻訳結果の正確性に自信を持てないものや、自分が権利を持っていないものを提供してしまうことは、やった本人だけでなく、コミュニティ全体の信頼を損なうことにもなりかねません。
前述のような悲劇を繰り返さないためにも、翻訳結果に対して「この訳で確実に正解だ」と言える確証や、安心して自由に利用できる確証が無い限り、機械翻訳の結果はあくまで、最終的にOSSに含めるテキストや投稿する文章にはそのまま使わず、訳をゼロベースで考えるための判断材料の1つとして使うに留めることを、筆者は強くお勧めします。
この事件はあくまで、「機械翻訳の結果」という著作権の扱いが不明瞭な物を、「権利を自分達が持っていると主張する前提の物」の一部として含めたことが問題となったケースです。不具合や要望を報告する場面で機械翻訳の結果を使ったとしても、直ちに同じレベルで問題になるということは、まずないでしょう。
ですが、翻訳はコントリビュートのきっかけとして挑戦しやすい分野で、近接する領域にあると筆者は考えています。報告の次のステップとして翻訳に取り組む際には、ここで述べたことを心に留め置いておいてもらえればと思います。
Footnotes
-
英語が得意で留学経験もあるような人が見ても、「なるほど確かにこう書けるな」と思えるレベルの翻訳結果が得られているようです。 ↩
-
英語の授業ではS-V-OやS-V-C(complement:補語)、S-V-O-O、S-V-O-Cなどのさまざまな文型が登場します。これは、日本語で「~は」「~が」といった助詞で表現する情報を、英語では文型(語句の登場順)で表現する必要があるからです。日本語では「君はプログラミングが好きだ」と書いても「プログラミングが君は好きだ」と書いても意味は変わりませんが、英語では「You love programming.(君はプログラミングが好きだ)」と「Programming love you.(プログラミングは君が好きだ)」では意味がまるで変わってしまいます。 ↩
-
実際の報告内容( https://bugzilla.mozilla.org/show_bug.cgi?id=1555584 )も併せて参照してみてください。 ↩
-
後に続く文章が前の文章を前提にそのまま続く接続。日本語なら「そして」「さらに」など、英語なら「and」「then」などがあたります。 ↩
-
後に続く文章が前の文章を否定する接続。日本語なら「しかし」「なのに」、英語なら「but」「however」などがあたります。 ↩
-
かといって、上達しようという意識を全く持たなくてもよい訳でもありません。自分の言いたいことを適切に表現できる英語力があったほうが、説明や説得をよりスムーズに進められることは間違いありませんから。 ↩
-
この対極の話として、努力で英語を身に付けられた人が「みんな英語にすればいいじゃん」とローカル言語への翻訳を否定する発言をした事例もありました( https://twitter.com/piro_or/status/1095592188438667265 )。しかし、この発言には多くの批判が寄せられ、プロジェクト運営者サイドから改めて、「英語だけが全てではない」という旨のフォローが入れられる結果になりました( https://github.com/parcel-bundler/website/issues/94 )。 ↩
-
日本語に熟達した人が日本語で文章を書くと、どんなに気をつけていても、無意識のうちに主語や目的語を省略してしまいがちです。機械翻訳ではそのような「文章の中には含まれていない外部の情報」を推測することが難しいため、誤訳が発生しやすくなります。 ↩
-
著作権は、基本的にすべての権利は権利者が保有しており、明示的に「この範囲でなら自由に利用してよい」と示されている使い方以外は、すべて著作権の侵害となり得ます。そのため、「駄目とは言われていないので、やっていい」ではなく「いいとは言われていないので、やっては駄目」と考える必要があります。 ↩